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第二の批難が示すものは、一般的に云うならば、科学論が特に自然科学的方法の現実的内容へ充分に立ち入ることをしなかったという欠点である。この欠点故に科学論は、現実の科学の、特に自然科学の、内部に立脚しない処の、地盤を有たない方法論として意識される理由があるであろう。自然科学の地盤から加えられる批難は、それが正当な批難であっても不当な批難であっても、その根本的な動機をこの意識から享けていると思われる。
ところが、西洋諸国に於ては、さういふ興行者にも、幾つかの階梯があり、それぞれの劇場群は、それぞれのほぼ固定した観客層をもつているのである。つまり、劇場が各々の「程度」と「色彩」によつて、これを撰択し支持する「顧客」を専有し、その範囲内に於て、一つの目標が与へられている。しかも、一般大衆は、自分達の目指す卑俗な興行物に吸ひ寄せられる一方、個人としては、時に背伸びをしながら、所謂「上等(シイク)な」劇場に足を向けることを自慢にする傾向がある。
余興の中で、隊長を喜ばせるのは、何といってもまず浪花節であった。
あの前の日も、ばかなことがあった。
自分から出した手紙の抜粋、
さう思つたのも無理は無い。花子は別品ではないのである。日本の女優だと云つて、或時忽然ヨオロツパの都会に現れた。そんな女優が日本にいたかどうだか、日本人には知つたものはない。久保田も勿論知らないのである。しかもそれが別品でない。お三どんのやうだと云つては、可哀さうであらう。格列荒い為事をしたことはないと見えて、手足なんぞは荒れていない。併し十七の娘盛なのに、小間使としても少し受け取りにくい姿である。一言で評すれば、子守あがり位にしか、値踏が出来兼ねるのである。
二十日Newオルレアンス着、黒人、綿。七時発。立つとき、金を貰いに来た男が、拒まれて、何かすて科白を云う。
教え得る(従って又学び得る)という学問性の規定――教導性――は様々に解釈出来るであろう。吾々は少くとも二つの場合を区別することが出来ると思う。学問が学問である以上或る人が築き上げた学問は他の或る人によって伝承されることが出来るというのがその一つである。というのは、成る程他人の業績をそのまま無批判に受けとることはどのような場合にも許されないが、併しそれが学問を有つからには、他人のその労作を一つ一つ実地に繰り返さなくても、自分にとって信頼すべき確実な遺産としてそれを所有することが出来、又は他の視角に於て他人の功績或いは失敗を再び繰り返す無用を節約することが出来、従ってこれを基礎として自分の研究を進めることが出来る筈である、というのが第一の場合である。茲にあるものは伝習の可能性である。――之を伝承性と呼ぶこととしよう。之に対して第二は、学問が学問である以上、まだその学問の語る理論に到達していない処の人々(尤もあまりにそれから距たっているものは別として)をして、之に通達せしめる通路を示し、之へ誘導し得る筈である、という場合である。ここにある問題は素養ある他人が、之に付いて来ることが出来るか否か、即ち異議と曖昧に出逢わずに歩むことが出来るか否か、である。――之を誘導性と呼ぼう。伝承性と誘導性、この二つの場合は、決して同じではないであろう。何となれば第一の意味に於て教え得るものは必ず第二の意味に於ても亦教え得るものでなければならないが、併し、その逆は必ずしも成り立たないからである。この意味に於て例えば哲学は学び得ないという言葉は意味を有つと考えられる。何となれば哲学は誘導され得るが、併し伝承され得ないという関係を、その言葉は語ろうとしているのだから。
殘る子供達は、酒田に平和に暮して居ります。
科学方法論という名によって呼ばれる顕著な課題の意識を促した功績は、主としてリッケルトの科学論に帰せられなければならないが、この科学論それ自らは、科学方法論一般の一つの特殊の場合に過ぎないであろう。それは方法概念の運動に於て、その上限と下限として、科学の学問性の考察と科学的世界の基礎の省察とに接しており、その発生の動機に於ては科学の分類から糸を引いている。そして之が提出する問題は、現在重大な一つの問題として、社会科学の問題と相隣りしているのである。科学論はこのようにして科学方法論一般の云うならば網の上に懸っている処の一理論である。処が更に、科学方法論それみずからが又一つの網の上に懸っているものに他ならないであろう。というのは科学方法論は科学に就いての特に方法を中心とした中枢的な理解であったから、それは一般に学問論――これを向の科学論から区別しよう――の一つの特殊の場合に過ぎなかった。科学方法論は科学論の内に於て一定の限られた限界を与えられている。そしてこの限界に隣るものは、例えば真理の理論、認識又は知識の理論、又学問の社会的機能の考察、等々であるであろう。科学方法論は特殊の学問論に過ぎない。
三月一四日降雪。
*Hegel-PhnomenologiedesGeistes(phil.-Bibl.S.16)及びEnzyklopdie(phil.-Bibl.S.47).
一座の人々は、冬菜のすすり泣きにつれて、いよいよ深く頭を垂れ、世の常の悲しみの色が部屋全体を包む。
幸福だと思はれた人が大して幸福でも無く、花やかだつた人であべこべに零落したのもある。天分のゆたかな女でも、大かた結婚と同時に駄目になるらしい。
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